ゴム動力 プラ子の日記  〜 第5回め〜  

プラ子の出会ったプラモ星人1号  Mr.Narita 

平成16年

10月29日(金) 朝は快晴 



(補足:このときはまだ会社創設前、私は父の木造の船を展示したブースでぼんやり店番していたんです)

 

こんにちは。今日はプラモ作りのとっても上手な私の「お隣さん」をご紹介しましょう。

この方は、アメリカのタミヤコンで優勝され、今年5月のモデラーズ合同展のために来日された方です。だから、上手レベルで言うと、ものすごく上手なんですよね。出展ブースが「お隣さん」の距離だったことと、会場にいた時間がお互い長く、また歳も近い気楽さから、お話する機会に恵まれました。すっごく魅力的なこの方は実は日本人で、お名前はMr.Narita。 アメリカに住んでらっしゃいます。

時差ぼけ眠気対策のため、ミントフィルム(LOTTEの商品カタログ→キャンディー)をいつもジーンズのポケットに入れていて、私も時々気分転換にそれを一枚もらいに行ってはおしゃべり。ミントフィルムはミントのガムと違い、口をくちゃくちゃ動かさなくてもよいので、周りからみても失礼でないところがとても良く、以来私もいつも持ち歩いています。

長いようで短かった合同展も撤収の時間となり、帰り際に、Mr.Naritaが予備に持ってらした小さな小さな戦闘機(受賞作品の軍艦の周りの海上を飛んでいるやつ!)を一機、下さいました。 いいだろぉ〜♪

Mr.NaritaのHPをみれば、その多才さに目を見張ることでしょう。合同展の様子もアップされてます。(プラ子は写っていませんでした。ほっ。) その最後に、私も会場でよく話をしたアメリカ人の方々が神社で並んでお参りをしている写真があり、その横からの姿がかわいらしくて思わず笑ってしまいました。 

今回のフリマのお話をしましたら、応援のメールを送って下さり、また、自らの思い出を書いてくださいました。あぁ、ありがたいなぁ。というわけで・・

Mr.Naritaです。 どうぞ♪ 

(補足:その後、一時帰国時には模型仲間たちと毎年あちこち一緒に出かける友人となった。彼は今、アメリカで映画の仕事で大活躍をしている。詳細は彼のHPをご覧下さい。

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「ビートル号」

親父が死んでもうすぐ5年になる。ちょうど娘が生まれた10日前の出来事だったので、娘がバースデイを迎えるたびにそれだけ時が流れた事を思い出す。親父は銀行勤めで忙しく、私が子供の頃は、いつも自分が寝る時間に帰ってきた事を憶えている。日曜日は大抵、疲れたと言ってテレビの前に寝転がり、ゴルフか野球中継を一日中見ていて、一緒に遊んだという記憶はあまりない。また自分とは違い、無口な人間だったので、あまり話をした記憶もない。稀に何を思ったか、「キャッチボールするぞ」と唐突に言われ、日曜日の夕方に、家の前の道で親父の投げる強いボールを黙々と受けた程度だ。「バシッ」という切れのいい音とともに手のしびれた感触を今でも思い出す。

そんな親父と母が、私が小学校の低学年の頃にサンタに頼んだウルトラマンのビートル号のプラモデルを1夜で塗装まで施して作ってくれた。当時ビートル号(最近正式名称をVTOL号と知ったのだが、私にとってはビートル号だ)としては今のようなダイキャストのモデルはなく、手に入るものとしてはプラモデルしかなかったのであろう。おそらく親父が組んだ最初で最後のプラモデルである。出来上がったものは銀と赤の境界がぐねぐねで、むらだらけ、おまけに指紋がべたべたと付いて、お世辞にも上手なものではなかった事を鮮明に憶えている。しかしそれは親が自分のために一生懸命作ってくれた初めてのプラモで、子供心にとても嬉しかった事は強烈に自分の心に焼き付いている。あのビートルはどこに行ったのか?いつ失ったのかは憶えていない。もし今もどこかに埋もれていたら、間違いなくそれは私の一番の宝物だ。

その後、高学年になって、「帰ってきたウルトラマン」に出てくるマット隊の飛行機を自分でいくつか作ったが、塗装までは手がでなかった。小学生にとって塗装は大きなハードルであり、ビートルを塗装した親を改めて凄いと思った。しかし近所には親よりももっと凄い「おにいちゃん」がいた。学校帰りに近所の文房具店「こだま」に毎日通っては壁一杯に詰まれたプラモデルを眺めていたのだが、そこの「こだまのおにいちゃん」は時々店先でプラモを作っていた。中でもトヨタ2000GTの完成品は、鮮やかな赤に塗装されて、ドアやボンネットが開き、しかも豆電球でヘッドライトが光る仕掛けまでついており、まさしく自分の尊敬するおにいちゃんであった。今も「こだま」は残っているが、いつしか壁一杯にあったプラモデルは消えてしまった。

私が夢中でプラモデルを作ったのは、中学生の時である。自宅から自転車で30分程度走った犬山市の城下町の一角に、重要文化財に指定されてもおかしくない昔ながらの家屋の玄関で、おじいさんがタミヤのMMシリーズをところ狭しと並べ売っている店があった。日曜日にはしょっちゅう出かけた。当時何を買うにも親の了承を取るのが約束であったが、お小遣いをすべて投入して黙って買い込んだ。雑誌や本を見て研究するという知恵を持っていなかった私にとって、その店に並んでいる戦車が私の知識のすべてであり、「今日は何を買おうか」、もうすぐすべての種類の戦車を手にできると、ウキウキしながら自転車を漕いだものだ。今思えば、そこに並んでいた戦車は実在の戦車達のほんの一部であったが、未だに当時知らなかった戦車を受け入れることはできない。また私の戦争知識も偏ったもので、当時テレビで時々放映される「バルジ大作戦」や「パットン大戦車軍団」の印象(ビデオがない時代なので印象としか残らない)が私の戦争観のすべてである。

私が今、模型を作るのは、回顧の思いがあるのかもしれない。もし戦車が好きで戦車を作るのなら、戦車や戦争の知識をもっと植えつけるのだろうが、未だに戦場はバルジとアフリカ(漠然と)しか知らず、クルクスがどこかも知らない有様だ。ましてやケッテン何とかと言われても定かではないし、知ろうともしない。そのうち変わるのかも知れないが、私が模型を作るのは、子供の時から知っている戦車達を、あの時できなかった悔しさもあり、とにかくカッコよく作りたいのであって、時代考証して実物を忠実に再現する目的ではないようだ。

残念ながらプラモデルは子供の楽しみから大人の趣味へと変わってきている。このまま行くとプラモデルは我々の世代で消えてしまうかもしれない。インターネットやテレビゲーム、遊ぶことに事欠かない今の子供には、カッコいいものはプラモデルしかなかった当時とは違い、もう二度と受け入れられるものにはならないのかも知れない。

もし、プラモデルをこれからの子供に伝えたいのなら、難しい作品よりも、銀と赤が入り混じった指紋だらけのぬくもりが必要なのかもしれない。




私が中学生の時に作った唯一の戦車ジオラマ。キングタイガー2台とキューベルワーゲン、3突などが行軍している情景。タミヤのレンガで作った建物に、割り箸で骨組みを組み、ダンボールを切り、中身のうねうねを見せ、端を焼いて焦がした屋根が自慢。雪は小麦粉だ。


カリフォルニア在住
成田昌隆 41歳
www.naritafamily.com 

※プラ子からの追加情報
Armour11月号、112-114ページに、成田さんの作品が掲載されてますよと、読者(♪)の方からメールを頂きました。→
相変わらず、ご活躍されてますねぇ。嬉しいなぁ。
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