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ゴム動力プラ子の日記 〜第214
回〜  2013年 10月31日(木)  

 

 

懐かしい写真募集中! 

模型とともに育った子供のころの写真や、エピソードを募集していま〜す!

送り先はこちら HP内に、昭和秘宝館、じゃなくって、昭和写真館を作ろうかと思っています。

(8 「をい!」)

エピソードか写真が模型に絡んでいることが条件。お名前は、実名または、いつもお使いの

HNにして下さい。モザイクなど必要な処理は済ませて下さいね。解像度もHP上なので、72で

十分。(分からないかたはそのままでOK、私が作業します)  facebookの方ですでに

募集を開始しておりまして、少し応募もありました。まだまだお待ちしております!

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私の場合はこんな感じ。プラモデルの写真は出て来こず、すべて「木製」・・・。

 

生まれた家(明石)は6畳一間の間借り生活、だったはずだが、

なんなんだ、この大きなガラスケース。そして、その上に載せられた大きな船は!

これは、若い頃の父親が手作りした大きな船で、このお話は、(OREGON)を読んで頂くと話が早い。

 →→→ 

私だったら、「あかちゃんが危ない!」と、ぜったいに置かないガラスケースであるが・・・おとなしいはずの

ない私もどうやらガラスを割らずに過ごし、歩けるぐらいになると、ガラスケースの中に船も無事に

収まったようだ。そして、その後、その船はアメリカに行ってしまった。 今は行方知れずである。

 

そして私をつれ、両親は静岡へ。田宮会長のお宅の隣に仮住まいする。家は奧で田宮さんちと

つながっていて、私はどっちが自宅かという自覚なく、広いほうのお隣の子のように隣の家で

いたずらをしていたようだ。

その家で、よく遊んだが、今でも水洗でない外のトイレが怖かった当時の気持ち、そして初めて1人で

トイレ(というより、いわゆる「お便所」に入ったときのがんばりが忘れられない。そのお便所の前の滑り台で

遊んでいる写真。

前に いるのは明石から田宮家隣に転がり込んできた熱血青年で、後にタミヤの常務となる。

私の後ろの子は、後にタミヤの社長婦人 となり、真ん中の私は・・・ゴム動力プラ子になってしまった。あれれ。

 

その後、社宅に移り住む。プラモデルの会社の社宅だというのに、木製の船だらけの部屋で育った。

   

だいたい六畳がダイニング兼リビング兼寝室であるのに、なぜこんなに大きく危ないガラスケースを置くのか。

そして、他にも作った船を並べてしまい家族の生活用品はどうするつもりか。

ちゃぶ台いっぱいに広げた木材や工具、湯飲みには木の細い板を曲げるためのお湯。茶碗の中には塩水に

浸けた銅板。くしゃくしゃになったサンドペーパー。

いったいご飯はどこで食べるのだ。などなど、狭い社宅で母はそんなことを思っただろうけど、この件に関する

言い争いは聞いたことがなかった。

狭いながらも楽しい我が家、子供の私も隣の四畳半で、レゴを広げたり、お菓子の箱でドールハウス擬きを

作ったり。父の作業を張り付いてみたりもしていた。片付けないと眠れない、というのが今や懐かしい。

四畳半にはピアノと勉強机にタンスがあったはずだ。今も狭いところのほうが落ち着くのはこのせいか?

しかし、父のこの迷惑な船作りのお陰で、30年後、私はマサナリタと友達になった。詳しくはプラ子の日記の

(プラモ星人)参照。これはほんの一例。


明石生まれの私がいま、ここ静岡にいて、今していること、全てが繋がっていると思うとおもしろいものだ。

アイアンマン3を熱をいれて見るのも、マサナリタが参加しているからで、マサナリタにあったのは合同展で、

合同展にでたのは父が船を作っていたから、父が船を作ったのは、神戸に生まれたからで・・・・。


マサナリタを例にあげたが、これまで、この業界でいろんな出会いがあった。

私の人生が模型の神様の管轄になったのは、父が(ピラーの塗料をタミヤさんに)売り込みにいった50年前。

または父がオレゴンを作った頃か? 作らないくせに模型の世界では年期入ってます。

模型の神様はクドカンより面白い脚本家なのかもしれない。

 

それから、モデラーズminiフリマ16の秘密の割引券はどこ?と思っていらっしゃる皆様。

ここです。(みつけてくれてありがとうございます!)

 あと10日です。 ぜひ、遊びにいらして下さいね!

今週末は、高知!そして、大阪! 強行軍ですが、楽しみです。

ではでは!

 

 

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